昨日の自分と今日の自分は同じ人か——禅の公案が壊す「私は変われない」という思い込み
「自分は変われない」という重い前提を、昨日の自分と今日の自分は同じ人かという禅の公案的な問いで揺さぶります。道元の薪と灰の教えから、変わろうと力むのではなく、すでに起きている変化に気づく実践法を紹介します。
「自分は変われない」という重い前提
新しい習慣を始めては三日で崩れる。同じ相手に同じことで腹を立てる。年始に立てた目標を、年末に一度も思い出さないまま終える。こういう経験が積み重なると、人は静かに一つの結論を抱えるようになります。「自分は変われない性格なのだ」と。
この言葉は、一見すると自己分析のように聞こえます。けれどよく見ると、それは分析ではなく前提です。しかもかなり強力な前提で、いったん握ると、あらゆる出来事がその証拠に見えてきます。うまくいかなければ「やっぱり変われない」、うまくいけば「たまたま調子がよかっただけ」。前提を守るために、事実のほうがねじ曲げられていきます。
禅は、こういう固まった前提を正面から論破しません。代わりに、その土台をそっと揺らす問いを差し出します。今回の問いはこれです。
昨日の自分と、今日の自分は、同じ人ですか。
公案とは、答えを当てるクイズではありません。論理でたどり着ける正解があるなら、それは公案ではなく問題です。公案は、答えようとする心そのものを行き詰まらせ、その行き止まりの先に別の見え方を開かせる装置です。
実際、この問いは両方向に行き止まりです。
「同じ人だ」と答えてみましょう。では、昨日は知らなかったことを今日は知っている、この差は誰のものでしょうか。昨日の自分は今日の自分の記憶しか持たない。細胞も、疲労の度合いも、機嫌も違う。まったく同じものを「同じ」と呼ぶなら、その「同じ」とは何を指しているのでしょう。
「違う人だ」と答えてみましょう。では、昨日した約束を今日守る義務は誰にあるのでしょうか。昨日の失敗を今日悔やんでいるのは誰でしょうか。まるごと別人なら、悔やむ理由も、責任も、成長という概念も消えてしまいます。
同じでもなく、違うでもない。この居心地の悪い場所に居続けることが、この公案の本体です。
道元が示した薪と灰
道元禅師は『正法眼蔵』現成公案の巻で、薪と灰について語っています。薪は燃えて灰になる。しかし灰が薪に戻ることはない。だからといって、薪が「灰になる前の姿」だと考えるのは誤りである、と道元は言います。薪は薪の位に、灰は灰の位に、それぞれまったき姿でいる。前と後ろはあるけれども、その前後は断ち切れている——「前後際断」です。
これは無常を悲観的に語った言葉ではありません。むしろ逆で、変化のダイナミズムを肯定する言葉です。私たちは普通、人生を一本の線として見ます。過去の自分から現在の自分へ、細い糸がつながっていて、その糸には「性格」「経歴」「傾向」といった重い荷物がぶら下がっている。だから変われない気がする。
道元の見方では、その糸は最初から存在していません。あるのは、今この瞬間の、まったき自分だけです。昨日の自分は昨日の位で完結していて、今日の自分を縛る資格を持っていない。
「変われない」の正体は、記憶の編集作業
では、なぜ私たちはあれほど強固に「同じ自分」を感じるのでしょうか。
一つには、私たちが毎日、自分の物語を編集し直しているからです。今日の自分に合う過去だけを選び、合わない過去は忘れる。「私は飽きっぽい」と思っている人は、続かなかった三つの習慣を鮮明に覚えていて、二年続いている歯磨きの改善や、五年変えていない朝の順序を数に入れません。「私は人見知りだ」と思っている人は、初対面で話が弾んだ日のことを例外として処理します。
禅の気づきは、この編集作業そのものを見ます。物語の中身を書き換えるのではなく、「今、自分は編集している」と気づく。それだけで、物語の握力がわずかに緩みます。
もう一つの理由は、周囲が私たちに一貫性を求めるからです。職場でも家庭でも、人は「あの人はこういう人」という扱いを固定したがります。予測できるほうが楽だからです。そして期待された役を演じ続けるうちに、演技はいつのまにか自己像になります。「変われない」の一部は、自分の性質ではなく、周囲との合意によって支えられているのです。
実践一——「今日はじめてしたこと」を一つ書く
一日の終わりに、手帳でもスマホのメモでもいいので、一行だけ書きます。今日はじめてしたこと、はじめて見たもの、はじめて感じたこと。何でもかまいません。「はじめて通る道を歩いた」「はじめて食べる惣菜を買った」「後輩の意外な一面を知った」。
大きな出来事である必要はまったくありません。むしろ小さいほうがいい。この実践の目的は、達成を記録することではなく、「昨日と今日は違う」という事実を、頭ではなく手で確認することにあるからです。
一週間続けると、七行の証拠が並びます。「自分は変われない」という前提が、七つの小さな反例に取り囲まれる。反論するのではなく、静かに包囲する。これが禅的なやり方です。
実践二——三年前の自分に会いに行く
三年前の自分が本気で悩んでいたことを、一つ思い出してください。当時の日記でも、写真でも、古いメッセージでもかまいません。
そして問います。その悩みは、今も同じ強さで自分を苦しめているでしょうか。
ほとんどの場合、答えは「いいえ」です。解決したから消えたのではなく、たいていは、いつのまにか重要でなくなっている。あれほど眠れなかった問題を、今は思い出すのに数秒かかる。
これは、あなたがすでに一度、大きく変わったことの証拠です。変わろうと努力した記憶がないのに変わっている。ここが大事な点です。変化は、意志の力で起こすものというより、生きていれば起きているものだった。「変われない」と嘆いていた人が、実は変化の真っ只中に立っていた。
名乗りをやめてみた朝
私にも、この問いが不意に刺さった朝があります。仕事で行き詰まっていた時期で、通勤の電車の中、いつものように「自分はこういうところがだめだ」と頭の中で反芻していました。もう何年も同じ台詞を、同じ抑揚で繰り返している自覚がありました。
そのとき、ふと妙な気持ちになりました。この台詞を最初に言った自分は、もういないのではないか。あのときの職場も、住んでいた部屋も、周りの人も、全部変わっている。変わっていないのは、この台詞だけだ。
窓の外の景色は、いつもと同じ順番で流れていきました。何かが解決したわけではありません。ただ、自分がずっと持ち歩いてきた自己紹介文が、ずいぶん古い書類のように見えた。降りる駅に着いたとき、その日はじめて、その台詞を口にしないまま改札を出ました。翌日にはまた言っていましたが、一度でも言わずに済んだ日があったことは、その後も小さな支えになりました。
変わろうとしないことで変わる
禅は「変わろう」と力むことをあまり勧めません。変わろうとする心は、変わっていない現状を毎回確認する作業を伴うからです。ダイエットを意識するほど食べ物のことを考えるのと同じで、目標が現状を強化してしまう。
代わりに禅が勧めるのは、今この瞬間の自分を、まったき姿として引き受けることです。薪は灰になる前の未完成な何かではなく、薪として完全である。今日の自分も、理想の自分の劣化版ではなく、今日の位において完全である。
奇妙なことに、この受け取り方をしたときにこそ、人は動きやすくなります。理想との距離を測る作業から解放され、目の前の一歩だけが残るからです。
今夜、寝る前に一度だけ問うてみてください。「昨日の自分と今日の自分は同じ人か」。答えは出さなくていい。答えの出ない問いを抱えたまま眠り、明日また同じ問いとともに目を覚ます。その繰り返しの中で、「自分は変われない」という古い書類は、いつのまにか手の中から落ちています。
この記事を書いた人
禅の洞察編集部禅の教えをわかりやすく、現代の暮らしに活かせる形でお届けしています。
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